正論をふりかざす人たち
正論をふりかざすことは、人と人との関係性においてはあまり有効ではないようです。
人と人がもめる時、「自分の正義」や「正義の立場で相手を正すべき」と相手を思うが故の、自分の正義に酔っていることが原因だったりすることがあります。
「憎しみ」や「愛情」は、相手への「執着」から生み出されていたりしますが、その執着を手放せない理由付けを、「正義」や「正論」にすりかえて相手に主張したりする、こういうことが人間関係の中では、往々にして存在しているやり取りだと思います。
自分の完璧を求める心があるからこそ、他人へと怒りをぶつけてしまう、といった感じです。
よくあるケンカや口論に、一方が「正しさ」を武器にして相手を責めていくので、もう一方は口を閉ざしてしまう、ということがないでしょうか。
「正しさ」で責める、ということをすると、相手側は「黙って我慢する」や「口を閉ざして話し合いの場から逃避する」といった反応しかできず、責めている人も、責められる人も、お互いに許したり、自分の意見を述べるという道もなくなり、お互いにまったく楽しくなく、幸せではない結果を引き寄せます。
ここで見失いがちになること、それは人間は最終的に「理屈」で動く動物ではなく、「感じて」動く動物だということです。
正論をふりかざしている人は、もしかしたら、自分自身が抱えている苛立ちの意味を知らぬままに苦しんでいるのかもしれません。
他人を裁く正義の権化と化したその人のパーソナリティやアイデンティティが問題なのかもしれないのです。だから、正義を叫ぶ側は、それによって誰かの心が傷つけられていったとしても、そこに目を向けることが難しいのだと思います。
考えるべきことは、正しいと思う自身の正義の寄りどころは何なのか。
そこを客観的に見つめ、まず自分自身を疑ってみることではないでしょうか。
- 自分の正しさは絶対的であるのか
- 相手のことをよく知らないままに正しさだけを押し付けていないか
- 自分の間違いを許してもらえなかったから他人の間違いも許せないのではないか
- はたまた、自分が人生を楽しんでいないことへの葛藤からではないか
そんなふうに、自分に訊ねてみることの方が大切で「なぜ正論をぶつけたくなるのか」を自問自答してからの方がいいと思うのです。
一度も罪を犯したことがない、そう言い切る人がいたとしたら、私はそういう人はとても苦手です。そういう人ほど、簡単に人を裁くからです。
苦しみや辛さを知っていたり、過ちや失敗をおかしたことがあって、その上でそれらを省みることができた人は、問題があるところには、必ずそうなってしまう理由が背景に隠れていることを知っています。だからこそ、そう簡単に人を裁いたりはしないのだと思います。そういう人たちは、何かあった時にはまず、そのことが起きた意味や自分を静かに内省しているようなのです。
「人を裁くなかれ。自らが裁かれぬためである。汝が裁くその裁きをもって自らも裁かれ、汝が量るその量りをもって自らも量られるであろう」新約聖書の一説
正義を声高に叫びたくなる時、自分をしっかりと内省し客観視できている人は、争いを起こそうとはしないものという意味だと思います。
「裁くのをやめる。それだけで人は幸せになれる」byジェラルド・G・ジャンポルスキー
正義の女神テミスは、右に天秤と左に剣を持ち、何より周囲の情報に惑わされないように目隠しをしています。
心の世界において、単純に「正義」と「悪」という二元論で考えるのではなく、自分も他人もみな複雑なしがらみの中で生きているという、全体を俯瞰した見方ができると、優しい眼差しを忘れずにいられるのかもしれません。