何でも食べられる人、どこでも寝られる人、誰とでも友だちになれる人

■この三つのことができる人は自分を信じ、自分を愛し、そして、他人も信じ、愛することができる愛着の安定した人。

  • 何でも食べられる
  • どこでも寝られる
  • 誰とでも友だちになれる

 

倫理学者・神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんがこう述べています。


よく考えて欲しい。

どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。

「何でも食える」人間というのは
「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時
に判定できる人間のことである。

「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。

「どこでも寝られる」人間とは
「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」
を直感的にみきわめられる人間のことである。

同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。

邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たち
に私たちは取り囲まれているからである。

「誰とでも友だちになれる」人間とは
そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」
を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。

「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。

そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。

「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。

どちらも「直感的に」、
「可能性」について考量しているのである。

だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。
それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。

自分がその相手を選んだことによって
潜在可能性を豊かに開花させ、幸福な人生を送った
という事実によって「自分の判断の正しさ」を
事後的に証明するのである。
(出典:邪悪なものの静め方内田樹)

友だちや仲間をつくるとき
ビジネスや結婚のパートナーを選ぶとき

それが「正しい選択である」こと
を今ここで証明してみせろと言われても
答えられる訳はなく

それが「正しい選択」であったこと
は自分自身が今現に幸せになることによって
これから証明するのである

ということは、まさにその通りで

だから「誰とでも友だちになれる」というのは
一見、浮ついている表現だし、芯がないような人だと思いがちだけれど、実はまったくの逆で

「自分を愛する」とか、「自分を信じる」
という自分への愛着が確固たるがゆえにどんな人でも
まず信じるし、愛するし、友だちになってみる

目には見えない絆をしっかりと結ぶことができる

そして同時に、
この人は危険だ、邪悪だ、悪意があるということも直感的に判断できるから
そいういった絆を「結ばない」という選択をすることもできる

「結ばない」ということもとても大切で
自分の人生を翻弄されないように「人を見る眼」を養えておくこと

それには、どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」というゆるがない
決断ができているということでもあって

「何でも食べられる」、「どこでも寝られる」、「誰とでも友だちになれる」

この3つが出来る人は、自分の「自分を見る眼」を自分自身が信用しているし、「あらゆる答え」は自分の中にあるのだと信じている人

「相手を信じる」その前に
まず、「自分を信じる」ことへの取り組み
から始めることが愛着形成の意義であって

自分の「好き・嫌い」とか、それが
「楽しい・つまらない」とか「やりたい・やりたくない」
の感覚をシンプルにもつ、自分で分かっている

そして、その感覚を研ぎ澄まし、自分にとっての幸せが
わかってくることが愛着形成のカウンセリングやセラピー
でもあるのだと思っています

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